ここ数カ月で、今日ほど「疲れ」を感じた日はない、と、半ば呆れた思いで祥吾は足もとに目を落とす。
スーツのズボンのポケットに両手を突っ込み、いつもの彼より少し速度を落とした歩き方で、会社の地下にある駐車場を1人歩いている。
このうす暗い照明のもとでは、彼の昼間に見せる、知性と思慮深さに少し野性味を混ぜたようなキレのある表情は、あまりうかがえなかった。
腕時計に目をやると、もう午後10時を過ぎていた。
とある企業の、技術職として入社して10年が過ぎ、その間彼はまさに猪突猛進、不屈不撓の精神で自分の技術力を磨いてきた。
同期たちが数人、激務で疑心暗鬼になり心を折らせていくなか、祥吾は努めて、「人間の心」を忘れないことを自分に言い聞かせ、それでも大きな組織や人間関係の闇の中を足を取られそうにはなりながら、なんとか踏ん張ってきた。
健全な肉体には健全な精神が宿る。まさにそれを体現するかのように、彼のその姿勢に、周りは答え、結果もついてきた。
今年に入って、彼は新しい製品の開発チームリーダーに抜擢された。
やりがいのある大きな仕事だ。未知のモノを作りだすこと自体、ワクワクする。
そのことに加え、たくさんの人材のトップとして自分の限界以上の力を絞り出すことに、祥吾はたまらない充実感を感じながら、日々の膨大な仕事量と向き合ってきた。
そんな彼でも、やはり壁にはぶつかる。
それは、開発のつまづきではなく、やはり人間関係だった。それも、新人との。
難しい。特に、一人一人が高いスキルを持つこのチームにおいては、彼ら、彼女らの確固たる強い信念や知識が明らかにこの開発においては方向が違う、と祥吾ならではの嗅覚で分かる時。
それを伝え、彼ら彼女らに納得してもらうことの、この難しさ。
ここ数カ月の体力的な疲れも相まって、さすがの祥吾も、少し弱気になって、力なく歩く、そんな駐車場だった。
「脇さんの言ってること、確かにもっともなことって、分かるんだよ」
店に入って1時間近くたつころから、少しずつ、この若い会社員からグチがもれてきた。
洋食とお酒が気軽に楽しめるこのおしゃれなお店は、いつも仕事帰りの男性や女性同士のいわゆる女子会グループで満員だ。
テーブル席、ソファー席、カウンター席とあって、今この若い男性は、カウンターに同じ年代の男性と女性と3人で、ゆっくりと飲んでいた。
この店のオーナーは40代の男性で、若いころは大きいホテルでフレンチのシェフをしていた。今でも、彼自身が厨房に立ち、料理を運び、お客さんと会話を弾ませる。
2人の感じのよい女性が、オーダーを取ったり料理を運んだり、クルクルとフロアを動き回る。
そしてもう1人、バーテンダーとして黙々とカウンターの中でお酒を作る女性がいる。
先ほどから、彼女、美弥子は、目の前でこぼされる客の愚痴を、黙って聞いていた。
最も、「脇さん」という言葉を耳にした時から、表情は変えずに、けれど興味を持って耳を澄ませていたのが本当だ。
ということはこの3人は、脇さんがこの前言っていたチームの、メンバーなんだ、と彼女は気づく。
‘すごいよ、技術屋ばっかりが肩寄せ合って激論交わすから、俺はもう黙って聞いているしかない時があるんだ’
なんて、一番の技術屋が何を言っているんですか、と、美弥子が笑って返したのはすでに数週間も前のことか。
彼女は、このカウンターで頬杖をついて考え事をしながら、彼女が作ったアルコールを楽しむ脇・・・祥吾を、ふっと思い出した。
「俺から言わせたら、脇さんはリーダーなんだから、お前は歯向かい過ぎ」
「そうよ、気持ちもわかるけど、今は脇さんを信じてついていくのがベストでしょ」
同僚たちから一斉にたしなめられた男性は、口をとがらせてグラスを口に持って行った。
「よく言うよ。信じてついていくって、ただ憧れてるだけだろ」
そう言われて、かわいい雰囲気の若い女性が真っ赤になって憤慨する。
「いいじゃない憧れたって。だって、脇さんよ?脇祥吾と同じチームにいれるなんて、まさか夢?って思ったもん、最初話をもらったとき」
男2人は、何も言い返せずに憮然としている。
「・・・・・・まあ確かにな。あの人は、あの年齢でよくやるよ。たぶんさ、お前が脇さんに歯向かうのってさ、脇さんの人柄や才能や外見に嫉妬してるんだろ。同性から見ても、いいオトコだもんなあ」
「それもあるかもなあ。」
「脇さんに嫉妬?!身の程わきまえないと」
男性2人の会話を聞いて、女性が呆れかえった声を出す。
「ほらそれだよ。あの人は涼しい顔してさ、社内の女の子ほとんど味方につけてるんだから」
「ちょっと、脇さんを女たらしみたいに言わないで。あの人の浮いた噂、聞いたことないから。逆に心配になるぐらいに、女の影がないんだから」
「仕事が恋人・・・・・・か。本当にそんな男、いるんだなあ世の中に」
カウンターの中で黙って手元を動かしながら、美弥子は妙に納得していた。
仕事が恋人か。もう使い古された言葉だけど、祥吾には変に当てはまる。
このカウンター越しで見る祥吾は、いつも仕事のことを考え、時に目を輝かせながら美弥子の問いに答える。
仕事のこと以外のプライベートな話を、彼とは交わしたことがなかった。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね」
たまたま入り口近くにいたオーナーが、嬉しそうな声を出したのが聞こえて、美弥子はふと目を上げた。
「久しぶり。まだいいかな」
そこには祥吾が立っていた。
疲労が滲んではいるが、ネクタイを緩めてぼんやり笑ったその姿の雰囲気に、美弥子はちょっとしばらく動けないぐらい胸を弾ませた。
祥吾が真っすぐ、美弥子が立つカウンター席に向かって歩いてきた。
先ほどまで、このカウンター席に彼の部下たちが座って、ああだこうだと言っていた。
そのことを思い出し思わず微笑みそうになった彼女は、祥吾がじっと彼女を見たまま真っすぐに向かってくることに気づき、再び何も動けなくなってしまった。
店に入ってすぐに彼の目に飛び込んできた美弥子の姿に、祥吾は今まで彼の身体の芯を重くしていた何かがスッと軽くなったことを感じた。
きれいな人だ。改めてそう思う。
きりっと結んだ髪が、そのてきぱきとした動きに合わせて白いシャツに揺れている。
カウンター周りを照らす落ち着いた色の照明が、彼女の黒髪をいっそうつやめかせ、少し開いたシャツの襟から見え隠れする小さなネックレスの石は、彼女が動くたびに時々光った。
「こんばんは」
祥吾がポケットから煙草とライターを出しながら椅子に座った。
「いらっしゃいませ。あら?吸われるんですか?」
彼が煙草を吸う姿を今まで見たことがないので、美弥子は意外に思いながら灰皿を差し出した。
「もう随分昔に止めたんだよ。でも、確固たる意志があって止めたわけじゃないから、たぶん、なんとなく吸ってしまった」
眉をあげて小さく肩をすくめ、彼は酒の注文をした。
美弥子がそれを目の前で作っている間、祥吾は煙草に火をつけ、彼女の仕草をじっと見ていた。
車の中で思わず思い出したのは、前回来た時に見せた、美弥子の笑顔だった。彼女が自分にこんな笑顔を向けたのは、珍しいことだった。
いつも真剣な顔でシェーカーを振ったり、後ろの棚に無数に置いてある様々な種類のアルコールを今の注文でどう使うか頭をフル回転させている様子ばかり見ていたからだ。
いつも静かな佇まいで、時々穏やかに微笑む。余計なことは一切言わない。
けれど、彼が今飲みたい、と思っている物を瞬時に察して作ってくれるその腕は、大したものだった。
そんな仕事に徹している彼女が、会話の中で何かの拍子に、とても笑った。
呆然となるぐらい、祥吾は見とれてしまった。
車の中でその笑顔を思い出し、仕事ばかりに忙殺される毎日で忘れていた、何か甘やかな想いが胃の下からせり上がってきたような感覚に襲われ、祥吾は車を降り、タクシーでこの店まで向かったのだった。
彼がやけに、じっと自分を見ている。
手元の作業に集中しながらも、痛いぐらいに視線を感じて、美弥子は思わず顔が赤くなりそうだった。
祥吾が現れただけで、何となく周りの空気も引き締まったように感じられる。
彼女が差し出したグラスを口にし、時々ぼんやりと煙草を吸っている。
その姿は確かに絵になるが、いったいどうしたんだろう、とも思う。今まで吸わなかった人が、吸いたくなる・・・・・・その心境が、少し心配になった。
「どうしたんですか。お仕事で、何かあったんですか?」
静かな口調で彼女がそう聞くと、祥吾は煙草を口から離し、そのままじっと美弥子を見ていた。
灰が落ちそうになることに気づいて灰皿でもみ消すと、手元のグラスに目線を落として何かを考え込むような表情になる。
「申し訳ありません、差し出たことを聞いて」
美弥子は内心慌てて、けれど心から詫びた。彼女の動揺は洞察力の鋭い彼にはすぐ感づかれたのだろう、はっと夢から覚めたような目をして、今度は祥吾が慌てた。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてただけだよ」
そうしてふと腕時計に目をした。もう深夜12時を回って、もうすぐ30分になろうとしている。
「確か、閉店は30分だった?」
「はい、もうそろそろです」
そうか。祥吾はそう言い、グラスの残りを飲んだ。
会計を済ませた祥吾は、他のグループが出口に向かう間をぬって、再度カウンターに近づいてきた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
何も言わずに美弥子の前に立ちすくむ祥吾を、彼女は驚きと不安と、まだ姿を目にできる嬉しさとが混じった想いで見上げる。
一体どうしたのだろう?
「この後、少し2人で話せないだろうか」
祥吾が、少し苦しそうな顔をしてそう言った。
祥吾は、「さあどうする」と何度も自分に問いかけながら、それでも必死で平静を装ってグラスを口にした。
彼女の働く店からさほど遠くない、感じのよいバーで、今は美弥子も客として祥吾の隣に座っている。
祥吾が必死で平静を装わなければならない理由は、2つある。
まず、店の制服以外の服装で髪をほどいた彼女を初めて目にし、まるで高校生のように胸を騒がせているからだ。
全く違う女性のようだ。仕事中とはまた違った華やかさがある。きれいだった。
俺はこんなにシャイだったか?
自嘲気味に思う。けれど確かに、長く付き合った女性に、2年ほど前に‘仕事優先過ぎる’という理由で去られて以来、まさに仕事漬け。そこにきて、今回のプロジェクトだ。
こんな想いや行動は、何とも久しぶりだという事実はある。
もうひとつの理由は、彼女のことを何も知らない、という不安からくる焦りを隠すために、平静を装っている、ということだ。
あの店に始めて行ったのは、1年前、大学時代の友人に連れられてだった。以来、一人でもゆっくり落ち着いて飲める雰囲気が好きで、時々通っていた。
そして、いつも目の前で作業する美しい女性と二言三言交わすのは、自分の仕事のこと。
彼女のことを、何一つ知らないのだ。
「高尾さん」
「はい」
美弥子の名字で呼び掛けると、いつもの静かな声で彼女が祥吾のほうを向いた。
「今何歳?ごめんねぶしつけで」
ここまで誘ったのだから、こうなると思い切って聞いた方がいい。
人を虜にする、彼ならではの懐の飛び込み方だった。
その魅力的な聞き方と声のトーンは、美弥子もまた虜にした。
なんて男らしいのか。思わずクスリと笑って、今28歳だと伝える。
特別な男性はいるの?
いいえ、仕事ばっかりでいません。脇さんは?
俺もいないよ、仕事ばっかりって、振られたよ。
あのお店は長いの?
はいもう5年目です。
もともとからあのお仕事?
ええ、実家の両親が、喫茶店を経営してるんです、鹿児島で。
鹿児島で。
はい、だから小さいころから、人に何か提供して喜んでもらうことに接してきたから。
私も自然と、飲食業に興味を持ったんです。
で、バーテンダーの道へ?
そう。お酒の種類に魅せられて。
「でも自分はあんまり、お酒には強くないんですけどね」
そういって美弥子は小さく舌を出した。
「ねえ脇さん」
その言い方に祥吾は思わず持っていたグラスを落としそうになった。
美弥子は、少年のようにそこまで動揺する祥吾に驚いて目を丸くした。
「ごめんなさい、馴れ馴れしかったですね」
「いや、いいんだ」
「脇さんは、どんな人なんですか?どんな子ども時代で、どんな人生歩いてきたんですか?」
思わず彼女を見つめた。そして祥吾は、にっこりと笑った。
そうだね・・・・・・と、ひとしきり彼の半生をかいつまんで話して聞かせる。
その間、神妙に聞いていたり、目を大きくして驚いて見せたり、尊敬の念いっぱいの表情を浮かべたりと、店でのクールで仕事に徹する彼女からは想像できない、かわいらしい心の美しさを目にした。
美弥子もまた、今まで彼の魅力を十分知っていたと思っていたのだが、こうやって相対してみると、彼の部下たちが彼を「すごい」と言うその意味が、よくわかった。
すごく、人から愛される人柄なのだ。
自分がどちらかというと、寡黙であまり社交的ではないタイプで、今の仕事についているのが不思議なぐらいだと思っているので、彼のような人を前にすると本当に憧れてしまう。
店員がオーダーストップを告げに来た。思わず2人で腕時計を見る。もう1時を回っている。
ここで話したのは、ほんの数十分なのに、もう随分と長い時間2人で話しているような気もするし、あっという間の気も、する。
それは2人共通の想いだった。
「また、外でこうやって会えるかな」
店を出て、まだ人の通りが絶えない賑やかな繁華街の流れの中、祥吾が聞いた。
少し声を大きくしないと相手に聞こえないぐらいだ。
「はい、また」
にっこりとほほ笑んだ美弥子を目にして、その時突然、急に祥吾は突き上げくる想いを自覚した。
瞬間、頭が真っ白になり、気がつくと力いっぱい彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
というより、重ねてしまった。
驚いて身を固くした美弥子が、すぐにふっと身体の力を抜いて、祥吾のほうへ重心をあずける。
急速に、自分たちに幸せが転がり込んできていることに、2人とも同時に気づき、そして同時に感動し、同時に唇を開き、深く深く、口づけし合った。
祥吾は、彼女のふんわりと優しい香りと柔らかい唇に我を忘れ、美弥子は彼の暖かい身体に包まれる安心感に陶酔しながらその激しさに必死で答える。
この繁華街では、こんな2人は珍しくないのだろう、みな当たり前の光景のように、2人の周りを、少し嬉しそうに微笑みながら通り過ぎて行った。
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