「そんなにスピード出すと危ないから!」
私の張り上げた声は、交通量の多い道路の割にはよく響き、こだました。
「周りを良く見て!スピード出すと危ないって!」
何かの一つ覚えのように、私は再度張り上げる。
けれどたぶん、彼の耳にはそのフレーズは一切入っていないし、心にも届いていないはずだ。
その証拠に、私の自転車の前を行く彼は、周囲を見ることなく、ただ前を向いてどんどんとスピードを上げている。
「洋輔!」
ヒステリックにがなりたてた私の声は、7月の乾燥し切った深い青空に、むなしく吸い込まれていった。
次の瞬間、洋輔がハンドルを離さないままチラリと後ろの私を横目で見た。
そしてまた、前を見て一心不乱に自転車をこぐ。
その時の彼の口端が、にやり、というふうに上がったのを見て、私は腹の底から怒りが込み上げてきた。
彼はこの状況を、おもしろがっている。危険だ、とか、母親が後ろで注意をしているから、せめて聞くような態度でも見せないと、とかいう気持ちはさらさらない。
身体で風を切って走る感覚に、彼の琴線が触れたのか。もう、だたそのことだけに没頭して、一直線に突っ走っている。
何か興味のあることや自分の琴線に触れることに遭遇すると、もとより薄い他人への配慮は彼の脳から消え去り、そのことのみに集中する。
軽度の自閉症である洋輔に、自転車の乗り方、交通のルールを、何年もかけて何度も何度も教えてきた。同じことを、何度も繰り返し、伝え、見せてきた。
けれど、これだ。
私の後ろ子乗せに座った5歳の彼の妹は、先ほど彼に理不尽なほど執拗に何かイヤなことを言われ、彼女も腹を立ててずっと泣いている。
私は、湧きあがってくる怒りをどうすることもできないまま、ただ彼を追った。
怒ったって、その怒り自体、彼は理解しない。けれど、ルールからそれたことをすると母親が怒った顔をする、その事実は、彼にも分かる。
ただそうやって、彼に刷り込みで、習得させるしかない「生きていくうえでのルール」を、人間としての普通の感情を持った平凡な私がやっていくには、しんどかった。
真夏に差し掛かる7月末の、熱気と湿気を含んだ空気が、余計に私を苛立たせる。
もはや先へ先へ行ってしまっている洋輔の小さな姿にも、霞がかかったように見えるほど、私は疲労困憊していた。
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